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今から120年前の明治15年(1882)2月18日のことである。太田町(現太田市)の旧2丁目北側にあった旅館古久三に森林太郎と名乗る青年が1泊した。この人物こそ後年の文豪森鴎外でその時弱冠20歳であった。 鴎外は、この前年に東京大学医学部を卒業して陸軍に奉職、軍医副(中尉相当)となったが、翌春第一軍管徴兵副医官として、係官と徴兵状況の視察巡歴の旅に出た。2月13日に東京を立ち古河・栃木に至り、それより旧例弊使道を西下して太田に泊まり、前橋・安中より上田・高田・柏崎と上信越を回り、同月29日高崎を立って帰京した。その間のことは彼の残した「北游日乗」(ほくゆうにちじょう)と題する日記に記されている。 |
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『十八日、はれたり栃木を立つ、この日陰暦の元旦なりければ軒ごとに松立てゝ、童ども新なる衣きて遊べリ、犬伏・堀込・佐野を経て、太田といふところに宿りぬ、旅店を穀三といふ』 以上の一文は北游日乗<新版岩波森鴎外全集第35巻所収>よりの引用で、日乗とは日記のことである。 巡回各地の風光・民情などを記し、またその印象を漢詩で詠じた紀行文としても特色のあるもので、前掲文のひなびた農村の元旦点描からもその一端がくみとれる。ただ道順は堀込と佐野が逆である。 |
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| さて、鴎外は太田の宿泊館を「穀三」(こくさぶ)と書いてあるが、本来は穀屋が屋号で主人の名は代々三郎治。つまり穀屋三郎治を縮めて「穀三」、後に当て字で「古久三」とした。例弊使道はなやかなりし頃の文化10年(1813)の開業で、太田宿の代表的な旅館であり、安政5年(1858)の「五街道中細見記」という全国の道中案内記にも芭蕉屋と共に紹介されている。 | ![]() |
| 写真は明治期の古久三の光景だが、なかなか規模も大きいようで、江戸の昔、村名主達がよく会合の場所に使った理由も分かる。すぐ西には、太田宿より東京への道、母衣輪(はろわ)道を経て桐生へ至る道も南北に通じており地の理も含め、表の大きな松の木を目印を売り込み栄えたが、惜しむらくは大正初期に廃業した。鴎外は翌日前橋に向けて立った。日記には「十九日、はれたり太田を立つ」とのみある。たった1日の機縁だが、森鴎外の泊まった旅館として、太田の古久三の名は永く識者の胸に生き続けるだろう。 太田市役所発行 『広報おおた』No.443 <にいたの遺産 森鴎外と古久三旅館>より引用 |
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| ホテル古久三(こくさぶ) 〒373-0026 群馬県太田市東本町28番8号 TEL:0276-22-2800/FAX:0276-22-2801 E-Mail:info@kokusabu.co.jp copyright©:1999-2004 hotel KOKUSABU. All rights reserved |